11. エクアドル・ ペルー

2004     9番目の訪問国 エクアドル        
4月13日(火)Ecuador.Quito 
          パナマよりエクアドルに入国
 6時起床し、ご飯を炊いて朝から鰻丼を食べる、当分の間の鰻の食い収めかと思われる。7時半から保健所の予防接種が始まるので、7時部屋を出る。保健所には7時半少し前に着いた。外にて待って居ると、昨日会った看護婦らしい人が出勤して来た。そして、部屋に案内され、パスポートを提出するとそれを元にイエローカードを作ってくれた。次に、別の事務所に注射代として$5を払った領収書を提示する、又もや部屋を移動、その部屋には薬の保管設備が有って、そこから薬と注射器を出し注射してくれた。ものの5分で終わってしまった。
 空港に行くのは未だ早いので、長男の事務所に行きパソコンで時間を潰す。9時 に成ったので長男に車で飛行場迄送ってもらった。搭乗券のチェックアウトし、イミグレに行く。パスポートに車の記載事項が有り、キャンセルしてない為に何か言われるかと 思いしや、何も無く通過。長男は何処か別の窓口を通り、国連職員専用パスポートを使い空港の中まで入ってきた。時間が有るのでコーヒーを飲み時間を潰す。キト(Quito)行きの27番ゲートはバスで行く為、流石に其処まではと空港職員に長男も断られて居た。
 定刻通りエクアドルのキト(Quito)空港に到着、入国手続きを完了し徒歩にて国内空港に移動する。そして、切符売り場に行き今日のマンタキト(Manta)行きの片道切符を頼むと、今日の分は全て売り切れとの事。仕方なく明日のを頼むと、朝6時45Quito発との事、早朝の出発と成る。切符を購入し、再び国際空港に戻り、Hotelの案内所に行く、そこでHotelを予約しTaxiを呼んでもらいサンフランシスコHotelに行く。朝5時のウオークアップコールを依頼する。長男に無事キト(Quito)着いた旨、電話した。
マンタ航空券$58、タクシー代$7、宿泊代$18
走行距離0Km 給油0L          
414日(水)Manta   エクアドル 車の受け取り
 朝、5時のウォークアップコールで飛び起きる。30分で支度を終え、フロントでTaxiを依頼する。Taxiが中々来ず、610分前の出発となる。Taxiに急いで欲しい旨伝えると、他から車が来なければ信号無視、人の信号無視と同様で有る。空港に630着、Taxi$7支払う。エクアドルも米ドルその物を使用している。空港カウウンターでチェックアウトし保安検査に並ぶ、ズボンのベルトを含む金属類を外しての厳しい検査を受ける。ターミナルから飛行機迄50m程歩いて行く。飛行機はB727-200結構大型で、多くのビジネスマンが乗り込む。定刻を5分程遅れ出発、上昇を終えると直ぐ下降に入る。飛行時間40分程、小型のサンドイッチと飲み物が出たのみ。
 マンタ空港からTaxiに乗り、船会社マースク・シーランド(Maersk-Sea land) の 事務所迄と言ったら、運転手はよく知っていると言う。知って居と言う割には知らなかった様で、何度も住所を聞いていた。結果、予想道理港のコンテナー置き場に連れて行かれ降ろされてしまった。
 港のゲートに行くと係員が道路の反対を指差し、マークス・シーランド(Maersk-Sea land)のOffice はあっちだと教えてくれた。其方に向かうとMantaのアドアナ(税関事務所)が見えた。税関前に居る人に尋ねると、事務所迄案内してくれた。処が、この案内人はその様な事で小銭を稼ぐギヤーであった、$0.5渡す。Maersk-Sealand の事務所はそのビルの、6階601号室で有った。事務所で手続き料を$38払い、税関に行き車の入国許可を取て来る様指示された。税関に行くと、入り口に案内人(ギヤー)が居て案内してくれた。中々大変でパスポート、車の登録所、その他通関資料と最後にカルネの頁を7部準備する必要である。コピー屋は港から少し離れた小さな公園の近くに有り、タクシーで往復する1回$1×2
 書類を税関に提出しコンテナー置き場に行き、コンテナーを開ける事になった。3名の作業員がコンテナーを開いた手間賃に$30寄こせと言い出す。コンテナーのドアーを開け、タイヤを留めてあるロープを四箇所切るだけである。余りにも高額なので、倉庫側のチーフに苦情を言うと、$20支払ってくれと言うので仕方なく払う。次に税関に戻っての費用の清算時、書類上の車の重量が何と2tに成っており、費用$4,000の請求書が起きていた。税関で電話を貸して欲しい旨申しいれるに、Panama迄の電話も貸せないと言う。仕方なく外の公衆電話で長男に電話すると書類をFAXでパナマ迄送れと言う。結果的にはその日には車が受け取れそうも無いので、近くの町で宿を取る事にした。するとギヤーに手数料として$100要求された、手持ち金が無いので$50にしろと交渉するもらち明かず。結局、財布に有った$90を支払う。公園迄歩きFAX屋を探すも、海外へのFAXは断られる。すると近くに海外への電話屋(この国でも海外電話一般的では無く、海外用の電話屋へ行かなければ成らない)そこでFAXをも取り扱って居たので5枚の送信を頼む、送信料$18Maersk-Sealandの事務所に戻り、明日再び来る旨伝えに行く。
 そこで再びギヤー(ガイド)に会ったので、安いホテルを知らないかと聞くと中国系のHotelが有ると言うのでそこに行った。Taxiを降り、荷物を路上に置くとHotelのボーイが出てきて荷物をHotel内へ持って行く。やや、これはこれはと思いながら、Hotel中に入ると案の定1$54との事。疲れていたので、仕方なく泊る事にした。朝食は飛行機でのサンドイッチ1個、昼食抜きなので腹が減り、夕食を食べに外に出るも、食事が出来る様な店は無かった。仕方なくHotelのレストランで食事をする。ワンタンを食べる美味しかったが、値段は程々の$9で有った。
タクシー代$15Maersk Sea land手数料$38、荷役人賃$20、荷役料$50、ギヤー代金$90、電話・Fax$24、宿泊代$83
走行距離0Km 給油0L            
415日(木)Tosagua
 朝食付きの高いHotelに泊ってしまったので、朝ゆっくり起き8時朝食を食べる。9時ごろ長男に情況を電話で聞く、全てやってくれた。Hotelの清算($83)をして、安心してMaersk Sea landの事務所に9時半頃Taxiで行った。事務所には何の連絡も無いとの事。仕方なく11時迄事務所で待つ、再度外の公衆電話で長男に何の動きも無い事を伝える。そして、事務所に戻るとどうもMaersk Sea landに車の輸送代金が張り込んで無いのが問題と言う事が解かり、支払い金額を聞くにPanamaで聞いた金額$783より低い$595払えば良いと言う事になりた。同じ建物内の2階に有る銀行にTC(トラベラー・チェック)で$500、現金で$95支払う。そして、事務所に戻ると昼休みでドアがロックされていた。外のManta海岸に行き、海岸に有ったレストランでサンドイッチの高いのを頼んだら、ホットサンドが出てきた。美味しかったがコーラを2本飲んで$3を払う。2時半を過ぎたので事務所に戻ると、今度は重量の問題(車両重量2,000t)で訂正版を作成してくれた。それで全て終了だと言われたので、書類を持ってコンテナーヤードに向かう。歩いて行くと、昨日のギヤーが居て書類を見せろと言うので書類を見せる。ギヤーが着いて来いと言うので着いて行く、初めに昨日手数料$50を払った処で資料を見せ、又$2払う。次に、車の有る所に行き結構複雑な交渉をしゲートを出て、中間にある処で書類の調整をし、Adoanaに行き最後の車両確認を受け、ゲートで最終書類チェックをしてもらい手続き完了。
 時計は4時過ぎで有った、Maersk Sea landの事務所に戻り、受付で良くしてくれた女性にお礼を言い¥5硬貨をあげ、預けて有った荷物を引き取る。Mantaの町をギヤーに案内されながら出発する。多分エクアドルでは珍しいと思われる$2札を今日の手数料にあげたら、感激してくれた。その後、キトへの別れ道迄案内してくれて車を降りようとするので、家まで送ると行ったら、家のある場所は既に通り過ぎて居た。少し戻りそこで分かれる、ボニト(友達)と言っていた。
 そして、エクアドルの首都キトに向かうが、エクアドルも中々難しい道路標識で有る。キトに向かう道では有るが、計画とは異なる道で日が暮れる。ガソリンスタンドで聞くと、この先にHotelが有ると言うので先に進む。門構えの結構立派なホテルが有り、聞くだけ聴こうと入って行くとクラー付きで$10、無しで$8との事。$10の部屋に泊まる、駐車場も有る。通りの公衆電話で家内にその旨連絡する。
宿泊費$10、昼食代$3、車両手続き代$2、水代$3、電話代$3、輸送費$595
走行距離74Km 給油0L        
416日(金)Latacunga
 朝、6時半起床、Hotelの直ぐ斜め前がメルカド(市場)なので早朝の情況を見に行った。野菜果物が殆どで有った、まん丸のパイナップルや見たことの無い果物が何点か有った。宿に戻りシャワーを浴び、書類等の整理をして9時出発する。途中に有ったガソリンスタンドでエクアドルで始めての給油をする、2個の補助タンクは船積み時空でなければ成らないので、補助タンクも満タンにする14.5G。エクアドルも単位はGarnで軽油$1.03(レギュラーガソリンは$1.43)で有る。途中3度の警察の検問を受ける。最初に金をせびられ、とりあえず$12枚有ったのでそれを出すと、ニタと笑いグラッチェと言う。大変気分が悪い。更に進み2度目の検問でも、金を要求され$1札が無いので、$0.5硬貨を2枚出すと、又もやグラッチェと言う。次の為に1$札を準備しておいた。3度目は何も無し。有料道路を2度通る、1$0.8で有った。相当の峠を越えた模様、高度計が鞄の中で、面倒なので確認しなかった。キトの少し手前の町で泊る。夕食にパナマで購入したご飯(カルフォルニヤ・コシヒカリ)を炊き鰻の缶詰で夕食を食べる。鰻の缶詰にIellとは書いて有ったが、何か魚が違う味でがっかりした。朝は半ズボンの半袖Tシャツ、この町に着いたら寒く長ズボン、長袖シャツに着替える。
食品代$1、警察$2、有料道路$1.6、宿泊代$12
走行距離289Km 給油55.12L          
417日(土)Quito    赤道の町
 6時半起床、Hotel直営のガソリン・スタンドで燃料を補給する。そして、8時過ぎ首都キト目指し走る。又、峠越えである。高地ではアイドリング不調に成り黒煙を吐く。キト迄32Kmと標識が有った、直ぐ着く距離だが中々着かない。ここキトの周りはそれぞれの町に途切れが無く町が続いている為、どこの町を走っているのか良く解からない。昼前にキトの町を過ぎ、22Kmで赤道の町La Mitad del Mundo目指す。途中何度か道を聞きながら走る。最後に聞いた車は目的地の前まで先導してくれ、暫く走りやっと目的地に辿り着いた。この国の名前であるエクアドルとは、赤道を示すスペイン語である。その赤道上に有る記念塔に登り周囲の山々を眺める、すばらしい眺望である。塔の中は民族博物館に成っており、階段を下りながら見学する。園内に郵便局が有り、日本へ手紙を送る$1.05。その他、FC(初日カバー)等も売って居たが言葉が出ず、購入し出来なかった。下の広場では民族舞踊をやっていた、ビデオを少し取る。民族舞踊が終わり、軍楽隊が軽音楽をやっている時、3人の日本人らしき人が居た。音楽が終わった後、残っていた1人と少し話をした、やはり日本人で有った。園を出て昼食を作り、キトに戻る。新市街のHotelに泊る$20
燃料代$10、公園入場料等$5、郵送料等$5.5、食料品$10、有料道路$0.5、宿泊費$20
走行距離0Km 給油36.75L          
418日(日)Quito     拳銃下げたウエーター
 飛行機の切符のキャンセルをしなければ成らず。もう1泊する事にしたので、朝ゆっくり起きる。車内でコーヒーを沸かし朝食のパンを食べる。9時車をそのままHotelに停め、町中をトロリーバスで移動し民族博物館に行く事にした。トロリーバスの走る通りに出る、かと思って歩いて行くと方向とはどうも違っている、地図を見直し方向を変えたら直ぐにバス通りに出た。トロリーバス乗場には駅舎が有り、入り口と出口がそれぞれ有る。進行方向の前後のどちらかが入り口で、反対側が出口と成っている。入り口には駅員が居て、両替や乗り方に付いて教えてくれる。料金は1$0.25。最初に乗ったらどうも駅名が違う、逆方向に乗ってしまった。次の駅で下車し、反対方向のトロリーバスに乗り目的の公園前で降りる。その公園を横切って行く先に博物館が有る。公園の中は丁度日曜のせいか多くの人が居て、又多くのみやげ物等の露店が並んでいた。コインや紙幣を売る店も数軒有った、ついエクアドルの古いコインを数枚購入した$20。博物館を見て、インカ時代には高度な生産技法が有り、多くの金細工が有った事が伺われた。中米
 その後、ケンタッキーフライドチキンで昼食を取る$2。この店の外にはライフルを持ったガードマンが居なかった、代わって店の中の店員がユニホームの上に、腰にピストルを下げ作業している。(中米のマックやケンタッキー等の店の入り口には必ずと言ってよい程、ライフルを持ったガードマンが居る、商品が日本と同じ金額と言う事は現地では大変高額で有るのでお客は裕福な人達である)この風景は何とも言えない姿で合った、思わずカメラの隠し撮りをしてしまった。又、トロリーバスに乗り旧市外に行った、多くの人が出ていた。旧市街は本当に歴史を感じると共に、美しさをも感じる町並みでどちらを見ても絵に成る風景である。写真とビデオを取る。4時に成ると人通りが少なく成って来た、この付近は夜は危険な地域なので早々に宿に戻る事にした。戻って、ネット屋を4軒回り、4軒目でやっと繋なげる事が出来た。車内でラーメンを作り夕食とする。
宿泊費$20、博物館入場料$2、交通費$1、食費$2、ネット$3、雑費$20
走行距離107Km 給油0L        
419()Ambato  Cevallos Hotel
 朝6時に起きたので昨日の日記を書き、写真を取り込む作業をする。9時にHotelの近くに有った郵便局に行き手紙を出す、全てメールスタンプで有った。それから、航空券のキャンセルに空港に行く。空港の事務所で町中に有る事務所に行くよう指示されて、町の事務所に行くと返金は無いと言われた。半日近く無駄にしてしまった。それから町を出るに迷いに迷いやっとQuito町を出た。その後、Riobambaに向かい、峠でも無いが高度3.400mを走る。高度が2.500mを越えるとE/Gの調子が悪くなる、アイドル回転がラフになり黒煙を吐く。Riobambaの少し手前の町Ambato Cevallos Hotelに泊まる。
高速料金$2、夕食$8、宿泊費$15+駐車料$3、郵送料$1、駐車料$2、燃料代$7
走行距離169Km 給油26.99L    
420日(火)Riobamba HotelChinborazo Interncional 
 朝早く起き、次の目的地リオバンバ(Riobamba)へ向かう。峠と言うよりも高原越えが有り、高度計の針が高度3400mを指していた。黒煙を吐きながらRiobamba鉄道駅に9到着する。駅から見る町の周囲の山々の景色が良いとガイドブックに書いて有ったが、残念ながら雲で山が見えなかった。駅の周りを見てセントロへ向かう、セントロの近辺を散策した。そして、郵便局へ行くと何故か局員が仕事をするのではなく、売店のおばさんが郵便受付から切手の販売迄をやっていた。封筒を出す$2.1と倍の金額を払う。別の売店にコレクター用に少し古い㌦表示でない切手を売っており、少し購入する$25.そして、公園脇に有ったスーパーで食料品を購入し、町が見渡せると言う421日公園に行く、周囲の山が綺麗に見えるが、更に高い山々は残念ながら雲の中で有った。そこで、街の高台に有る町で最高に料金が高いと言うHotel Chinborazo Interncionalに泊る$25
有料道路$2、宿泊費$25、郵送料他$27、食品$10
走行距離72Km 給油0L        
421日(水)Riobambaコロナ・マークⅡシングルピック
 朝、早く起き、次の目的地Cuencaへ向け8時半Hotelを出発する。少し道に迷う、殆どの通りが通行止めに成っていた。これは今日何かのフェステバルが行われる様だ。見ない訳にいかないと思い、車を通りの近くの路上に駐車する。通りは9時頃には既に人で埋まっていた。何時から始まるのか解からないが、時間まで待つより仕方が無い。それにしても物売りの多さ、物凄い人である。11時頃パレードが始まった。最初は軍か警察の鼓笛隊が進み、騎馬警官がその後を進んでいった。後は全て学校の吹奏楽団や鼓笛隊のパレードばかりで
現役のRT66
有った。昼過ぎにもう見飽きたので、車に戻ろうとするも全ての道路が人で埋め尽くされ、元の道に戻れない。仕方が無いのでパレードに付いて行き、横の道に出られる処を探しながら進んで行った。やっと救護所の中を抜けさせてもらい、横の通りに出る。自分の車からはかなり離れている。横の通りに出ると若い2人が車上荒しをしようとしていたところに出くわした。しかし、彼らは鍵を開ける事が出来ず諦めた処で有った。自分の車が心配になり、急いで車に戻る。異常なし、一安心で有った。もう今日は2時を回っているので、町を出るのを止め、景色が良いと書いて有った421日公園に行く。残念ながら周りの山々は今日も雲の中で有った。公園には花輪が飾られていた、よく考えると今日が421日で有った。独立記念日か何かを記念して作られた公園で、それを祝ってのパレードで有った。今日は町中の別のHotelに向かう。部屋が有り、料金は$14.45で朝食付き、車は宿指定の駐車場に停める。夕方、夕食を食べようと町中を探すが見当たらず、仕方なくHotelに戻る。Hotelのレストランでサンドイッチとコヒーを頼む。出てきたのはホットドッグ風のもので有った、料金は$4.5+コヒー$0.5ので有った。(写真は町中で見た、入社数年後に生産した コロナ・マークⅡ シングルピック RT66)
宿泊費$14.45、夕食$3,6
走行距離6Km 給油0L      
422日(木)Ingapirca
 朝目が覚めたら7時を回っていた。慌てて起き朝食を食べる。朝食はジュースとコーヒーとパンだけで有るが美味しかった。レストランを出てキャシュディスペンサーに行ったら、スペイン語の表記のみであり、操作方法が解らず、現金を出す事が出来なかった。ガレージへ車を取りに行った、Hotelの客だから料金はなしとの事、Hotelも良心的で有った。そして、Riobamba の町を何度か聞きながら出ることが出来た。暫く登り坂を登っていると、前方に事故らしき情況が見えた。警官に迂回を指示され迂回路に入るも中々進まず。事故は大型トラック3台による衝突事故の様子で有った。迂回路を出て更に登りが続く標高3,200m程で下りに入る。途中悪路を走る、更に今日は小雨混じりで霧が濃く、何も見えなかった。2Azoguesの町に着いた。街の入り口にIngapirca遺跡方面の案内板が有り、その方に曲がると更に標識が有りIngapirca 9Kmと書いて有った。更に進むと、直ぐにIngapirca 32Kmの標識が有った、どうも先の看板は頭の数字が消えて居た様である。Ingapirca遺跡迄後1時間位掛かるのかなと思いきや、30分程で着いてしまった。村に有る2軒の宿の内、奥の宿に行く。聞くと$6との事、そこに泊る。宿の前で村の様子を見ていたら、少し先に遺跡が見えていた。明日は遺跡を見学し、Kuenca に向かう。Kuenca の近くには又温泉が有る様なので楽しみだ。(事故の状況)
宿泊費$6
走行距離206Km 給油32.55L
 
423() クエンカ(Kuenca)   Ingapirca遺跡
 今日の朝はゆっくりしよと寝ていた処、6時半過ぎにドアをノックされ起こされた。Hotel前に停めた車が、大型トレラーの通行の邪魔になるので移動して欲しいとの話、急いで起きて外に出る。既にトレラーは通り過ぎて居た、トレラーの帰りに邪魔に成ると思い車を移動させる。7時過ぎ、車の中で朝食を取り、昨日の悪路走行でドロだらけなので少し車を洗う。
                  そして8時過ぎ村の中に有るIngapirca遺跡を見に行く。入り口にゲートが有るもそのゲートは村の一般道の上に有り、如何すべきか様子を見ていると、男の人が近ずいてきて遺跡を見るのかと聞くのでそうだと答える。するとゲートの脇に有る家に案内され、そこで入場券$6を購入する。すると反対側の家を指差しミュージアムが有ると教えてくれたので先ず其処を見る。紀元前500年頃から建設が始まった様で、個の様な 高度な文化と技術を持った民族がなぜ無くなってしまうのか不思議に思う。石の切り方も直線的で良くも切ったものだと感心する。園内にはヤクの親子が何組か居た。2時間近く掛けゆっくりと遺跡を見学した。そして、村を出てAzoguesの町に向かう。   30分程でAzoguesに着く。そこから街道に戻りKuencaを目指す。途中昼食を取りながら2時頃Kuencaの町に到着、まずHotelを探す。Kuenca で最も古いHotelと言われる Hostal Paredes6に泊る。別の有料駐車場がHotelの真ん前に有り、料金を聞くと1晩$1.5との事で其処に停める。手持ちが無いので先ず銀行に行く、$400程引き出す。町中を少し歩くと郵便局が有り、局内の売店で使用済み切手500種$35を買入する。又、スーパーが有ったので、食材を購入する。夕食はHotel近くのレストランでエクアドル料理を食べる$6.5、味はいまいち。
宿泊費$6、切手$35、食品$7、遺跡入場料$6、夕食$6.5
走行距離95Km 給油0L      
424日(土)Kuenca    日本人ライダー
 朝、Hotel出て、直ぐに道路脇に車を止め、朝食を取っている最中に駐車違反警告書を張られた。ずっと車内に居たが、警告書を貼っているのが解らなかった。出発しようとした時、警告書がられて居るのに気が付き、警告書を剥がす。少し走って再度停車し地図を見ていると、警告書を貼った人が来て何か言っていた。言葉が解からない旨伝えると行ってしまった。
 その後、直ぐ先に有った銀行博物館に行く。入場料$3を払って入場しようとしたら、ガイドが付くが必要ないかと聞かれたのでお願いした。若い女性が色々と英語で説明してくれた。そして、館の裏が遺跡に成っており、裏に出て遺跡の説明。そして、地下のコイン展示室の中の説明等、約3時間に渡り説明してくれた。最後にガイドが日本の美術に付いて聞いてきたので浮世絵の話をした。すると浮世絵を知らないとの事、本当に博物館員なのか疑問に思った。  博物 館を出たのが1時過ぎ、館の少し先に小川が流れておりその横で昼食を食べる。それからガイドBookに有った温泉に向かう。中々見つからず、到着したら3時を廻っていた。プールに入る時間も無く引き返す。
 Hotelに入ると玄関に日本ナンバーのBMWの単車が置いて有った。後で尋ねると東京のライダーで新潟からナホトカへ渡り、ヨーロッパへ抜け、そして欧州からチリーへ渡り、チリーから北上して来たと言っていた。チリーからエクアドル迄、何も見ずに3ヶ月と言っていた。6月ブラジル到は無理なのか、或いはチリー先端をやめれば良いか等の選択が必要と成りそうだ。それから、ロシヤにロシヤ縦断道路が完成したと言って居た。ただし、途中何も無いところが多い3日に1度位しか町に着かないので、ブッシュキャンプが殆どだとも言っていた。もし、JAFの言っている通り、今後カルネの再発行が受けられなければ、アジアを走る事が出来なくなる。その時はロシアを走り、日本へ帰る事に成るかと思われる。ロシアの道が繋がって居れば、安心して走りきる事が出来ると思い、気が少し楽に成った。話をした後、昨日駐車した駐車場へ行くと、閉まって居たので他の駐車場を探し停めた。
宿泊費$6、食品代$2.5、博物館入場料$3、駐車場料$2.5
走行距離44Km 給油0L    
425()Machala
 朝8時半、車を引き取りに行く。宿に戻り国境越えの準備として車を洗車する。すると、昨日の同宿のライダーもHotel前で出発の準備をしていた。やはり相当の荷物の量だ、お互いの旅の安全をと挨拶して出発して行った。9時過ぎHotelの横のスパーで少し食料品を購入し、国境の町Machala目指し出発する。Machala 海岸に有る町で高原を延々と下る。途中荒涼とした唯砂岩で出来た山々が続き、多くの場所で山崩れ、地すべり、落石が目立つ場所を通過する。途中警察の検問に遭うも異常なし。そして、徐々に南国の木々が目立つ様になり、2時頃Machalaの町に着くと大変暑い。Hotelを探し大きな駐車場の有る所にチェックインする。クラー付きの部屋に入る。車のルーフラックに載せた補助タンクの固定木枠が外れ、タンクが移動していたので修理する。又、国境越えの為の最後の洗車をする。
 外に出てネット屋に5軒ほど聞くに、全て接続を断られてしまった。諦めて家内に電話屋から電話する。ただし、途中で直ぐ切れてしまう。2度ほど掛けて少し話をし、切れた処でやめる$0.2で有った。
宿泊代$15、食品代$5
走行距離70Km 給油0L                            エクアドル走行距離1,325Km        
      10番目の訪問国 ペルー        
426日(月)PERUPiura(¥33.3)  ペルー入国
 朝8時、EcuadorMachala Hotelを出発し国境を目指す。予定では1時間位で国境に着くかなと思いながら走っていた。しかし、2時間と予想以上の時間が掛かり、10時過ぎ国境に到着する。ゲートの近くでAduana(税関)の場所を聞くと3キロ戻った所に有ると言っていた。そう言えばインターネットの情報でも3キロ手前と書かれていた。国道を3キロ戻ると、その地点は警察の検問所の隣で有った。そこで、再度入国書を記入した。(入国時記入した入国書がパスポートに挿んで有った、それを提出すれば良かったのだが忘れていた。)書類を提出しパスポートにEcuadorの出国印を貰う。そして、国境ゲイトの少し手前にあるAduana(税関)の事務所にてCarnetのキャンセルをしてもらう。しかし、何故かこの処置に時間が掛かり、書類が作成された時は1時近くで有った。係官が国境ゲート迄車に同乗し、ゲート前で停車して少し待つ。係官が処理したCarnetを返却してくれて、ゲートを通過しPeru側へ行く様指示してくれた。
 国境は川を跨ぐ2030m程の橋を渡って、直ぐ右側にPeru側のAduana(税関)が有り、先ほどのEcuador側の係官も来て説明してくれた。Peru側の係り官は書類のコピーの提出を要求して来た。Ecuadorの出国印の有るパスポートのページのコピーが無いと言いながら、Peru側の係官に言って取りに行ってくれた。その間責任者の係官と話しをした。よくペルーへ来てくれた、歓迎すると言って、その係官の祖父は日本人で有るとも言っていた。そして5分程でCarnetを作成してくれた。そこで、係官が両替屋を紹介してくれたので50㌦程両替する(どうも両替金をごまかした様で有ったP30程足らない)。次に入国手続きだが、国境から町を通り2KmPeru側に入った処にイミグレション(入国管理局)が有り、其処まで走って行く。イミグレーションでは又、小銭目当てのガイドもどきが居て、車を此処に停めろ、事務所は向こうだとか言いながら着いてくる、無視して進むも着いてきて色々言っている。手続きは入国書を記入し、提出しパスポートに入国印を貰って完了。これも5分程で完了する。自称ガイドにはP1コイン1枚をやると、コカコーラ代かと言うので$0.25硬貨1枚を追加してやった。Peru入国は大変簡単で有った。
 街道(パンアメリカン・ハイウエー)を進むと海岸線に出る。道は綺麗な海沿いに延々と続く、気持良い道である。100Km近く有るのではないかと思う。そして、海岸線を離れ内陸部に向かうと風景は一遍した。草木の無い砂岩で出来た山々の間を走る、その間に本格的な検問所が有り検問を受ける。その時1人がタバコは無いかと言って来た、無いと言っても暫く同じ事を言っていたら、別の係り官がもお止せと言って止めてくれた。やはり良心的な警官も居るんだなと安心した。そして、更に道を進む。Piuraの町の手前で燃料を補給する。ガソリン・スタンドでフジモリに付いて話題になる、何と返事をして良いのか解らず、曖昧な返事をする。(フジモリ氏の状況を聞いてくる、愛着を持って聞いて来るのか、悪意を持って聞いて来るのか、その真意が解らない)Peruも燃料はガロン単位である。町には6時過ぎ到着、ネットで見た日本人経営の宿に行きたかったが、暗くなり探す元気も無くなったので、ロンリープラネットに書いて有った宿に泊る。駐車場も付いていた。
宿泊費C48、燃料代
走行距離507Km 給油0L        
427日(火)Chiclayo パンアメリカン・ハイウエイー 
 昨日の疲れが取れず、ゆっくりと時間を費やしてPiuraHotelを出発する。今日の目的地チクラヨ(Chiclayo)の町へ行くルートをHotelで聞くと、パンアメリカンハイウエイーを行けば2時間で行くと教えてくれた。しかし、道は良いが砂漠の中の1本道、延々と直線路が続く、日陰の取れる休憩場も無い。結局250Km3時間で走り、午後2Chiclayoの町に着く。  昼食をHotelの正面に有る小さな中華料理屋で麺を注文する。すると、直ぐワンタメンが出てきた、少し量が少ないが美味しいと思いながら食べていると、注文した麺が山盛りで出てきた。どちらか言えば日本の焼きそばに近い物であったが何とか平らげた。そしてHotelに戻りMail文を外作業で準備し、ネットカフェへ出かけた。4軒目のネットカフェにてやっとオートで接続が出来、準備して来たMailを発送する。 息子からのMailに寄ると、澤夫婦がその後も長男の手を借りている様子で有った。夕食も昼の中華料理屋へ行った。ワンタン何とかと書いて有ったので、ワンタン麺が出てくると思っていたら昼と同様ワンタンメンが出てきて、次に炒飯にワンタンの皮を揚げた物の上から酢豚をかけた様な物が出てきた。これも大盛りであった。美味しかった。デジカメが又もや不調となり、3日分が消えて無くなった。
 27PIURAからパンアメリカンハイウエイーをCHICLAYOの町まで250Km 走る。この間、全く樹木の無い地帯と低い木が点々生えてる地帯で、道路は略200Km 直線でした。この厳しい環境の中でも、人が生活している状況が時々見受けられました。ペルーの第1印象はこんな処です。
宿泊代C24、食事代C12,
走行距離230Km 給油43.52L    
428日(水)Trujillo
 朝8時過ぎ、Hotelをチェックアウトし、郵便局へ行く。手紙を出すがメールスタンプで有りがっかりした、郵送料C5と結構高い。そして、今日の目的地Trujilloの町を目指し走る。町を出た途端又もや砂漠地帯を走る。Peruはこんなに砂漠の多い国だとは思わなかった。そして、オアシスの様に緑が増すと町が有る。途中の町で警官に停止を求められた。どうもスピードオーバーの様子で有った。45Km/Hの標識が有ったので減速はしたものの、45Km/H迄は落とさなかった。56Km/H11Kmオーバーだと言っている、素直に謝ったら、たぶん今後気お付けなさいと言ったと思うが、勘弁してくれた。(この旅を始める前から、交通違反は警察の言い分が言葉の問題で理解出来ず、全て悪者にされる可能性が有るので十分に注意して来た積りであるが。)以降十分気お付けて走って居たが、幾つかの町を過ぎた処で又、笛が鳴った。自分かも知れないと思ったが、無視してゆっくり走って行った。暫くして後ろを見るとパトカーが着いて来る、多分止れと合図しているものと思い停車する。すると警官が来て、チェックをし始めた。様は右ハンドル車を見て不信に思った様で、追っかけて来たと言っていた。ここでは特に問題なし。
 その後、地図に有ったEl Brujo の遺跡を見に行った。しかし、道が入り組んでおり遺跡へ到着するのに時間が掛かりすぎた。国道へ戻った時は既に4時近くに成り、慌ててTrujilloの町に入ろうとしたら3度警察に止められた、今度はガソリン代を置いて行ってくれと言われC10を渡す。今日は警察の日で有った。ガイドブックに有ったHostal Colonal に泊る。駐車場無し、別途駐車場代C5を払う。
宿泊費C45,燃料代C64、遺跡見学料C20,食品他C10,郵便料C5,雑費C5,
走行距離270Km 給油35.96L      
429日(木)Chimbote   コロナ・バンが走ってる

パン・アメリカン・ハイウエー
 朝6時半起床、7時半車を引き取り8時チェックアウトする。郵便局で手紙を出すC5,又もやメータースタンプ。そして、郊外に有るチャンチャン(Chan Chan)遺跡を見に行く。意外とスムースに到着したが開園が10時からと言う事で30分程待つ事に成った。  入り口で待っていると、会社で造ったコロナ・バンが走ってきた。しかもハンドルは左で有る。話をしていて解かったのはハンドル位置を右から左へ改造していると言う事で有った。それで、作った事の無い、セラの左ハンドル車のなぞが解けた。ここに来た車はみんなタクシーとして観光客を乗せて来た。そのタクシー運転手の中に、日本で働いた経験の有るペルー人が居て、日本語で話をしていたら何時の間にか10時半に成っていた。先に集まった観光客と共に、英語のガイドが居なく成ってしまい、仕方なく一人で遺跡を回る。このChan Chan遺跡のスケールは大変大きく、未だ完全には調査されて居ない、見学できる範囲は相当の広さが有る。ただし、この遺跡、中国のトルファン同様、日干し煉瓦を用いての建物で有り、その為上部は風化で無くなっている。インカの遺跡は全て石で出来た遺跡だと思って居たが、日干し煉瓦も使われて居た事を始めて知った。トルファンを思い出しながら遺跡を1時頃迄見学する。
 そしてTrujilloの町の外周を回り、ハイウエイに出てLimaに向かう。やはり町を出た途端、荒涼とした砂漠で有った。この道は緑の町が有り、町を通り過ぎると又砂漠と言う情況で有る。途中で見学の疲れがどっと出て、路端で寝てしまった。目が覚めて走り出し、直ぐの町ChimboteHotelに泊る。
施設見学料C10,宿泊費C20,20LC11,郵送料C5,
走行距離161Km 給油29.9L    
430日(金)Huacho Hostal Punat Rocas
 朝8時半チェックアウト。直ぐハイ・ウエイに出て、Limaを目指す。今日も砂漠の中を延々と走る。今日は警察の検問に5回遭い、その内3回金の要求を受ける。毎回C10札を出して居たが、C10札が無くなりコインでC7出したらまあいいかと相談していた様だ。まあC10が適切の様だ。気分が悪いが仕方ない。そして、3時過ぎ後150KmLimaの標識が見えたが、又無理して夜遅くLimaの町を探し回るのも困るので、途中のHuachoの町のHotelに泊まる。ホテルの人がインターネット屋に付いて行ってくれて、交渉してくれたが3軒目でやっとOKの返事、しかし接続を試みるも接続出来ないので他の店に行く。その店には若い人が2人居て調整をしてくれたが、スピードが遅く6件のMailを送るのにたっぷり2時間掛かってしまった。そして6時過ぎ、近くに中華料理屋が有ったはずだが、探しても見つからず、夕食抜きと成ってしまった。又、Hotelのオーナーが日本で2年間働いた事が有り、日本の話から始まる。更に、オーナーの所持している車がフォールックスワーゲン・カルマンギヤと言うクラッシク・カーの話で更に盛り上がり、8時迄話をする。
宿泊費C35,警察官C27,ネット代C7、食品代C1、
走行距離292Km 給油30.66L      
51日(土Lima         またまた悪徳警官
 朝、8時、車を引き取りに行き、その途中有った店でパンを4個、卵を4個、インカコーラ2種類を1本ずつ購入し計C3.9支払う。8時半Hotelをチェックアウトしハイ・ウエイに出る。町は直ぐに終わり、町の終わり有った空き地で朝食を取る。中南米のパンは安くて美味しいので助かる。  町を出るとすぐ又砂漠地帯を走る。そして、又町が現れる。Limaの直ぐ手前の町を過ぎて峠を越えていると、前にパトカーが居た、後ろを走って居ると道を譲ってくれたので前へ出る。するとビーコンランプが点滅させたので仕方なく止る。するとこの道は大型車専用道路なので小型車は通ってはいけないとの事。Uターンして戻れと指示され元の処まで戻る。
 丁度警官がそこで検問をしていたので、尋ねると1人は今戻って来た道を真直ぐ行けば良いと言い出し、駄目で戻って来たんだと言うと、別の警官が違う道を教えてくれた。午前中は数箇所の警察の検問を1度もチェックを受けず通過した。今日は何も無いのかなと思いつつ走る。そして、Lima市内に入る、Hotel方面に走っていると前方にパトカーが走っていた。ロータリィーを回った時、こちらが前に出てしまった。案の定、パトカーがビーコンを回したので停車した。するとペルミソ(車両入国許可書)を見せろと言う、カルネを見せる。するとカルネでは駄目だ、ペルミソを持って居なければPeruでは右ハンドル車は違反で有る、切符を切るからC100を支払えと言う。それでは面白くないので、この件に付いて日本大使館へ相談すると言うと、今度は切符を切らないなら、C50支払えといい始めた。要は金が目的なのだ、仕方なくC50払う。結局今日1日分の警察費用をまとめて徴収されてしまった。
 それから宿を探すも1軒目は満室で断られて、2軒目日本人宿Pension mitumasuを目指す。大分迷った末電話を入れる、近く迄来ている様だが良く解からない。車の近くに居た人に聞くと、目標物迄案内してくれた、お礼に5円硬貨を上げる。そして、其処から電話しても解からず、移動し別の目標物より電話をすると、車で迎えに来てくれた。この宿も何の標示も無く、外から見るに唯の民家と言う感じで有った。Limaで開業し25年経つとの事、日本人宿の老舗である。今日はメーデーの為従業員全員休みとの事。しかし、宿にて日本風の夕食を食べ、日本式の浴槽に浸かり最高にリラックスできた。宿の駐車場には車が大きすぎて入らない、そこで、宿の奥さんにこの付近は24時間ガードマンが管理しているので路上駐車でも大丈夫と言われ、路上駐車する。
宿泊費US$45,、雑費(警察)C50、食費C3.9,有料道路C5,燃料費C61.6,
走行距離180Km 給油27.25L       
52() Lima   日系人のアメリカ強制収容所送り
 朝ゆっくり起き、8時近くに宿の朝食を食べる。そして9時過ぎ博物館に出かけるも、道に迷い博物館に着かず。そうこうしていると、又例のパトカーが現れ、今度はC30を出せと。もううんざり、宿に戻り記録の整理をする。昼食は車の中に有ったゆで卵2個とパン2個で済ませる。そして宿に有った日本のCDを新しいCDへの転録をした。やって見ると簡単な事で有った。次回はビデオテープからCDへの切り換えを、やらなければならない。
 これからのペルーの旅の走行ルートを検討する、ナスカ、マチュピチュ、そしてチチカカ湖は見逃せない場所である。ここリマからナスカとマチュピチュ方向が異なりどの様に回るかを検討した。マチュピチュにはクスコから列車に乗ららければ行けない、そこで、ナスカへ向かうか、クスコへ向かうかを選択しなければならないが、2つの場所は方向がが全く異なっている。 ロンリープラネットと言うガイドブックにはナスカ・クスコ間の道では山賊が出るので注意と、書かれていた。宿で聞くに、3年前に山賊が出たと言っていた。澤さん夫婦は海賊に遭って、私が山賊に遭ったら笑い話にも成らないと思いナスカ・クスコ間の道ははしらない事にした。そして、ナスカへはここリマから飛行機で往復することにして、リマからクスコへ向かい走る事に決めた。(この事が結果としては大変な事に成った。)明日、旅行社を宿で紹介して貰い、クスコ行きとクスコの遊覧飛行の切符を購入する事にした。
 夜宿の奥さんと話を、ブラジルを除く中南米の日本人は第二次大戦時全て、アメリカ本土の強制収容所へ送り込まれた。奥さんの家族も収容所に送られ、終戦後ぺるーに戻って来たと言ていた。多くの日本人は全ての財産を没収され、元の国にも戻れなかった。それ故 現在、ブラジルを除く中南米に、日本人が少ない理由だと言っていた。夜は日本のビールを飲み、風呂に入り寝る。
雑費(警察)C30, 宿泊費US$45,  走行距離22Km 給油0L      
53日(月)Lima
 9時宿の近くの日系の旅行社へ行く、出来れば明日ナスカの地上絵を見に行きたいと思う。この旅行社は宿の近くに有る様なので歩いて行く、宿で教えられた道を行っても良く解からず。近くと思しき処から電話を入れる、どうも通り過ぎて居る様だ。少し戻ると旅行社が有った、申し込むと明日のツアーに参加出来る事に成った。但し、正確な出発時間は夕刻にならないと解からないので、宿に決まり次第電話で連絡してくれるとの事。旅行社を出て、再度博物館を目指し歩いて行く。地図を何度か確認するに、どうも方向を勘違いしている様で有った。又、旅行社の近くまで戻り、そこから方向を変え歩いて行くと博物館が有った。しかし、どうも様子が違う、今日は休館の様で有った。仕方なく帰ろうとしたら、博物館の直ぐ横に郵便局が有り、入って行くと収集用の切手が売られていた。一通り購入し、近くのビッグマックで昼食を取り、宿に戻り車の整備をする。夕方旅行社より電話が有り、明日朝8時半宿の前でピックアップしてくれるとの連絡で有った。この宿は結構高級な宿で、JAICの人が定宿としていた。
ナスカツアー代US$350、昼食代C10, 食品代C30,切手代C180, 宿泊費US$45,
走行距離0Km 給油0L      
54日(火)Lima     ナスカの地上絵
 朝8時半、迎えの車が来て、飛行場迄送ってもらう。車はコロナだが昭和40年代の車で100Km走っていると言っていた。この車の運転手は日系人で、日本語が出来た。早速フジモリさんの事を聞いた、すると車内に有った新聞を見せてくれた。その新聞に人の名前らしき表が有り、一番上にフジモリと書かれていた。この表は次期大統領の人気投票で1位がフジモリさんに成っていた。大多数のぺルー国民はフジモリさんに好意的で有ると言っていた。ガソリンスタンドで聞かれたのも、その様な意味で有ったと思われた。
 飛行場でチェクアウトし飛行機はフォッカーの双発ターボプロップ機の60人乗りでIcaの町まで40分ほどで飛ぶIcaの町でナスカを見る為に小型機に乗り換えるが、そのフライトの順番待ちがある。JALパック等のツアー客は優先的に出発して行く。一般客は相当待ち時間が有り、まず食事を取る。食事のテーブルには一般客として、数人の日本人も居た。食事の後、博物館を駆け足で回り、その後オアシスを見に行た。3時やっとフライトとなる、セスナーの20人乗りの単発たボープロップ機である。5個の地上絵の上空で左右に座った人達が良く地上絵が見える様、右急旋回し、続いて左急旋回した。飛行場から地上絵の場所迄約10分、地上絵上空で10分計30分程のフライトで有った。地上絵を中々確認で出来ない場所が有り、少し物足らなかった。帰りは飛行機が更に小さくなり、地上絵を見に行った機と40人乗りの双発機の2機への分乗となった。私は小さい機に乗る事になった。機は1000フート迄上昇してLimaを目指す、夕日に向かってのフライトは美しく且つ楽しかった。予定より30遅れの6時半Limaへ到着する。リマの飛行場での迎えの車は、多分30分程待っていたのではないかと思われた。
空港税US$10,ビール代C7.宿泊費US$45,
走行距離0Km 給油0L        
55()La Oroya      4,828mの峠越え
 朝朝食後、車を洗い宿を出発する。一路Cuzcoを目指し。今回の道は山に向かって行く為、緑が続きやっとPeruと言うイメージに合った道で有った。徐々に坂道を登って行く、昼食時には既に標高3,000mを越えていた。車が少しずつ煙を吐く様になり、エンジンの回転を上げ様とするも空気不足の為か回転がラフになり回転は上がらない、白煙が凄く出る。調子良く走っていると、又警察の検問。書類のチェク等に時間が掛、上り坂を追い越した大型トラックも次々に検問所を通過していく。其の上、又例の飲み代の要求、それでも今日は3回検問の内1C10の要求だけであった。午後2時頃Ticrio峠に到着、4,828mと書いた看板が有り写真を撮る。(会社勤めの最後の職場で、退職記念品として高度計を貰った、この高度計が大活躍である。)峠にはピーナツ売りが居た、話はしたがピーナツは買わなかった。そして下りに入る、道を曲がるLa Oroyaの町に3時少し前に到着、直ぐにHotelが見つかったので今日は此処に泊る事にした。Hotelに入り少し経つと雷を伴う豪雨となった、こんなに雨が降るのに、どうして山々に緑が無いのかなと思う。少し小降りになったので夕食を食べに、外のレストランへ行ったが口に合いそうな物が無く、何も食べずHotelに戻り寝てしまう。
宿泊費C38,燃料費C58,雑費(警察)C10,
走行距離181Km 給油26.78L        
56日(木)
 朝早く7時半チェックアウトし一路Cuzcoを目指し出発する。次の大きな町Huancayo10時頃到着する。少し時間の余裕が有りそうなので洗車屋で洗車をしてもらうC7。そして、工事中の道路が多く迂回路を走る等していたら、本格的な交通止めの道に入ってしまった。警察の検問も2回受けるが今日は問題なし。2時から6時までの4時間足止めを食らう。仕方が無いので車の中で整理する。今日は何処に泊れるやら。待つ間にトラックの運転手にこの先で泊る所を聞いた。しかし、物凄い悪路を走り出して1時間、その町らしき処が有ったが、通過してしまった。7時過ぎ次の町に着いた、そこには鉄道の駅が有った。駅前で話をしている人に泊る所を聞く、直ぐ先に有る処を教えてくれた。車で行くと田舎のHosupitaje(民宿?)で有った。日干し煉瓦で造った部屋に裸電球が1つと黒光りした毛布が有るベッドが1台、トイレは外で済ませる1C7。現地の人はこんな家に住んで居るのだなと思った。夕食は街のレストランでMANYU(定食)をC2で食べた。スープとご飯にビーフシチューをかけた物でおいしかった。車から降ろしたシラフを持ち込み、ベッドでシラフで寝た。
燃料費C72、洗車代C7,宿泊費C7,食事代C2,
走行距離206Km 給油31.95L      
57()
 6時起床し7時出発した。出かけにパンと卵を購入C2,目的地Cuzcoを目指し走る。結構な悪路である。2時途中の町に着く、数軒のHotelが見えたが、昨日の二の舞に成るかなと思いつつも出発した。町を出た途端に舗装路である。延々と走るも町が出てこない、先の町までは4時間程だと言って居たのに2時間経っても最初の町も出てこない。標高4,200mを走る。又、6時を過ぎ夕闇が迫る、前を走って居たトラックの後に付いて走って行ったら何処かの村の中に入って行きトラックは停車した。全く別の処に来てしまった、トラックの運転手に道を聞き真っ暗闇の道を1台で引き返す。途中にCuzcoへの標識が有り、標識に従い道を曲がって進む。道路の下の方に明かりが見えるが中々近づか無い、延々と走り昨日と同じ7時やっと町にたどり付く。町の入り口に有ったガソリン・スタンドで給油し宿を聞くと、町中に泊る所が有ると言うのでセントロに向かう。セントロに有ったレストランでHotelを聞くと先に有ると言われて行くと「hosuptje」の看板が有り尋ねる。そのHosupitajeに泊る、前回の宿と内容は同じで有った。
食費C2,宿泊費C7,燃料代C72,
走行距離405Km 給油30.85L        
58日(土)
 朝6時起床し6時半出発する。トイレ・洗面の水も無いので其のまま出発する。町を出ると直ぐ絶壁の道、道幅は狭くガードレールも無い、路面も未舗装路ででこぼこ。よくこんな危険な道を大型車が通ると感心する、多分転落事故が起きているのだろうと想像できる。今日も延々と山の上り下りを繰り返す。途中、何時もの板の橋(轍の部分に直線的に板が張ってある。)を渡る。其の時右後輪が板から外れ、タイヤが板から落ちた。橋の凸凹による振動かと思いながら、ゆっくり進んで橋を渡る。橋を渡りきった所で警察の検問が有り、警官に後ろのタイヤがパンクしているのを指摘された。周りに居た現地人が皆でタイヤ交換を手伝ってくれたので、警官にC10を渡し、皆で飲んでくれと頼む。(この処置が後で思わぬトラブルを起こす)高度計も4,000mを指している、エンジンの調子が悪くなるのと、頭の痛さで高度が高い事で大まかに解かる。そして、2時小さな町に着く、又次の町まで行くべきか思案していると、1人の女の人が居て服装が地域の服装で無く、別の仕事を持って居る様な服装なので次の町迄どの位の時間が掛かるのか聞いた。2時間で付くと教えてくれた、2時間なら3時間掛かっても次の町に着くと思い、少しスピードを上げ出発する。途中警察の検問に合い、次の町までの時間を聞くに2時間半掛かると言う。まあ、何とか明るい内に着くかなと思いスピードを上がる。4時過ぎ町が見えた、しかしそれから延々と道を下るも中々町に到着しない。更に走りやっと町に近ずく、町への入り口から数キロが舗装されており、舗装路の快適性をつくづく感じた。町に入り警官が居たのでHotelを聞くと1軒の宿を教えてくれた。宿を見るのそれ程に見えなかったが、値段を聞くとC35,駐車場有との事、其処に泊る。町で公衆電話を探して居ると電話屋が有り、国際電話を頼む。テレホン・カードはナンバーダイヤル式で有り、眼鏡を持って行かなかった為に数字が読めず、売店の女性にダイヤルを頼む。家内と話をする。帰り道、鳥のから揚げ屋が有り、夕食にMENUを頼む。スパゲチーとポテトフライ、鳥のから揚げとスープが付いてC2、割と美味しかった。
宿泊代C35,燃料代C65,食事代C2,電話代C5,雑費(パンク修理謝礼)C10,
走行距離217Km 給油27.25L        
59日(日)Cuzco    何のための5日間の走行
 朝6時に起床し、久々にホットシャワーを浴び出発準備をする。Hotelで聞くにCuzco2時間だと教えてくれた、まあ4時間見て置けば良いなと思いHotelを出る。現金が無いので銀行に行ってから、車を車庫から出しホテルに戻るつもりで出かけた。銀行へ行くもデスペンサーからは何故か現金が引き出せない、仕方なく車を引き取りに行こうとするが車庫の場所が解からなく、Hotelに引き返す。そしてHotelの人に駐車場へ案内してもらい、車を引き取る。Hotel前にて車に荷物を車に積み込む、又車が汚いので少し洗車する。そして、両替屋に行きUS$100C345に両替し町を出る。店でパンと卵を購入する。町を出ても舗装路で有る、今迄とは全く違う快適さであった。途中3,500mの峠を越える。燃料が少ないので燃料を補給する、するとC15だと言う、少し給油量が少いと思いながら代金を払う。矢張り少し走るも燃料計がそれ程上がらない、仕方なく再度別のスタンドに入り燃料を補給する。Cuzcoに入る、マチュピチュのツアーに参加するには先ず宿泊先を決める必要が有るので、日本人宿「ペンション八幡」へ向かう。観光警察署の近くだと、ガイドBookに書いて有ったので探すも、観光警察署は見付ったが肝心のペンション八幡は見付らない。そこで、公衆電話でペンション八幡へ電話すると、今日は満室との事。次の日本人宿に電話すると、宿の人が居ず宿泊人が、他の宿を進めるので電話を切る。それではリマの旅行社で聞いたCuzcoの日本人旅行社へ電話し、明日のツアーと宿泊先を紹介してもらおうと電話する。すると、明日のマチュピチュのツアーへの参加は無理だが、個人で行けば行ける。マチュピチュへ個人で行く方法と、Hotelを紹介するので旅行社に来なさいと言ってくれたので事務所に向かう。電話で場所を聞き、向かうがそれらしき場所に事務所らしき建物も無く、看板も無い。折り返し再度探すと日本人らしき女性が小さな子供をつれ立って居た。声を掛けると其処が事務所で有った。全くの民家そのもので有る、事務所に兼自宅に上がり、お茶を飲みながら話をする。その内ここでも宿をやって居る事が解かり、泊る事にする1US$15.車庫は無いので、車を近くの有料駐車場に持って行く。
 此処まで来た道の話をして、宿のご主人にナスカからクスコへくる道で山賊が出るとガイドブックに書いて有るが、それは本当なのかと尋ねた。すると以前はその様な事が有ったと聞いている、しかし、現在は完全舗装されて居て車で1日の距離であると言われた。なんの為の5日間だったのか、余程今回走った道の方が、山賊に遭う確率が高かった様で有った。 
 そして、明日のマチュピチュへの行き方を聞く。ネットを借り内容を確認する。夕食をご馳走になり、ジャグジ付きのバスタブに入り寝る。
 燃料代C15C、食品代C2,宿泊費US$15
走行距離206Km 給油40.12L    
510() Cuzco    天空の遺跡マチュピチュ
 朝、6時起床し朝食をご馳走になり、更にUS$の手持ちが無いので120㌦借りてマチュピチュ向けて出発した。宿で篠田さんより借りた地図でスムースに進む。途中雪山の見える素晴らしい景色に出会う。写真を撮りVTRを撮ろうとしたら、電気が無いと標示された。少しだけVTR撮りやめる。そして、教えられた駅の町に行く、小さな町で川石を引き詰めた道路が続きセントロに出る、セントロに居た警官に駐車場と駅の場所を聞く、教えられた方に行くとゲートが有り、C2払い中に入る。小さな駅の前に駐車場が有り其処に停める。すると、鉄道関係者の駐車場係りが来て、管理するから管理料C10 くれと言う。仕方なく承諾する。するとマチュピチュマ迄の列車の切符の購入に付いて手配をしてくれた。処が切符は片道のみ購入(US$35)となり帰りはマチュピチュの駅で購入するよう指示された。10:30出発の電車に乗る、座席番号1番を撮ってくれた。するとアメリカ人の団体が乗ってきた。電車が出発し間もなく、1人のアメリカ人女性が隣の席に移って良いかと聞いてきた。OKと言うとご主人が名前を呼んだ「けいこ」と、それで日本人と思い声を掛けると日本人で有った。ニュヨークに住んでいるとの事等色々と話をした。1時間程でマチュピチュに到着、直ぐ帰りの切符を購入しに行く。4:30発の切符を購入(US$35)しバス停に行く、12時発のバスが出発した後で有った。次のバスは30分後、往復のバス切符(US$9)を購入し出発を待つ。12時半に成るも列車が道路を防ぎ出発出来ない、結局15分遅れで出発した。バスは相当きつい未舗装の上り坂を登る、登りきる前にエンジン不調で何度もエンジンが停止してしまう。やっと頂上のバス駅に到着する。駅前が直ぐマチュピチュ遺跡の入り口だ、入場料US$20を支払購入する。入り口ゲートを入り細い道を進むと通路が観光客で一杯で有った。横に上に行く矢印が有ったので上る。標高の高い所での階段はきつい、すると写真等で良く見たマチュピチュの全景が見えた。遂に来たマチュピチュ遺跡に、感動で有る。途中列車の中で会ったアメリカ人団体にも合い、Mailアドレスを渡す。3時少し過ぎ迄遺跡を見学し3時半のバスでマチュピチュ駅に降りる。下のマチュピチュの町に付き、列車を待つが何処で乗るのか解からない。市場を歩いて居ると立派な駅舎が見えた、入り口で聞くと其処から乗るのだとの事。この駅舎に列車が入るレール部分が2年前の土砂崩れで流され、現在は復旧した下側のレールを使われており、その駅舎より長い階段を下り列車に乗った。列車は定刻通り4:30出発、帰りの席は中間部でスイスの鉄道と同じ様に天井部がガラスに成っており、山々の頂上の雪が見え中々素晴らしい景色で有った。定刻通り6:45XX駅に到着、辺りは暗闇で有った。駐車場に行くと朝の係員が未だ居た、C10を渡し駅を出発する。暗闇では有るが行きに通った道なので、間違わずクスコの町に戻り、車を駐車場に預けて宿に戻る。夕食をご馳走になる、そして話の中でご主人と一緒に今後の旅を続ける話となった。明日昼前頃出発する事にして就寝する。
 駐車料C4,電車賃US$70,バス代US$9,遺跡入場料US$20,
走行距離159Km 給油0L        
511日(火)Puno
 朝6時起床し出発の準備をする。車を洗い銀行に行き、$500Soru700を引き出す。宿に帰り荷物をまとめ、借りた$120を返し2日分の宿泊料$30を払おうとしたらその分は要らないと言われた。そして篠田さんのご主人と共に宿を出て、一路Punoへ向かう。道路は完全舗装路で快適に走る。午後4時頃Punoの町に到着。Hotelを探して少し価格が高いが泊る事にした、朝食付きでC60。夕食を食べに行く事になり、近くのレストランへ行くC20。夜は大変寒く震える程で有った。
宿泊費C60,夕食代C20,燃料費70
走行距離392Km 給油30.52L    
512()         チィチィカカ湖
 朝6時起床7時朝食を食べ8時チェックアウトする。畔に向かい、湖畔に車を止め、観光船に乗り湾内に有る浮島ウロス島に10分程で行く。船は15名程度の乗り合い船で、お客が有る程度集まらないと出発しない。島はトトラと言う草で作られており、島へ上陸するとふわふわしていた。島は小さく、1つの島に12家族が住んでいる様子で有るが、観光化され各島共お店が並んで居た。島を3箇所と亀島と言う小さな浮島で無い島を回り、12時頃港に戻る。そして、いよいよBoliviaとの国境の町Desaguaoeroの町目指して進む。しかし、その途中に有るPomataと言う町で、12ヶ月前村長が村民に殺された、その為警察が入り住民40名程を逮捕した。その逮捕に反対した、他の村民が暴徒化し道路を封鎖した為通行出来ず、普段で有れば2時間程で行くところが、迂回しなければならず、その道が悪路で5時間と倍以上の時間が掛かってしまった。今日の2時頃国境を越える予定が、5時過ぎDesaguaoeroの町に付く、Hotelを探し泊る(C10)。夜夕食をレストランに食べに行く(C20)。夜は大変寒かった。
宿泊費C10,燃料代C85,夕食代C20,
走行距離378Km 給油37.47L           11番目の訪問ボリビア    
513日(木)La Paz   不法入国で逮捕
 朝6時半に起床し、外のレストランで朝食を取る。8時Hotelをチェックアウトし、ガソリンスタンドで給油し、いよいよ国境へ進む。国境は昨日夕食を食べに行ったレストランの前なので、雰囲気は昨日の夜感じていた。
 先ずペルーのアドアナ(税関)に行きカルネのキャンセルをしてもらい、出国税C5を払い、続いてイミグレでパスポートのキャンセルを受ける。そして、警察の前を通りカルネのキャンセルされたのを提示する。OKの返事と同時に金の要求C7程コインが有ったので与える。 
 そして、国境の橋を渡りBoliviaに入る。先ずアドアナでカルネに記入捺印をしてもらい、続いてイミグレでツーリストカードを記入しパスポートに入国印を貰い完了。そこで、ペルーのお金がC400程余ったので、ペルーの国境へ戻り両替しようと戻る。すると、先ほどの警官が出てきて、パスポートを見せろと言いった。見せると今度は密入国だと部屋へ入れらた。部屋には5名の係官が居て、その内のボスらしきのが密入国で逮捕しろと言って1人を残し部屋を出て行った。そして残った1人が、逮捕されたくなければUS$100を払えと言い出した。仕方なく$100を払い、Bolivia側へ急いで行く。Bolivia側の手続きも完了しているので国境を出ようと、完了内容をゲートの手前の警官に見せるとOK、但し少し金をと又来た。$1を払う。いよいよ最後のゲート、係り官にゲートを開けてもらい通りに出る。通りは悪路で有り10分程走ると舗装路に出る。其処にも警察が居て車のチェックと金の要求又$1払う。またまたペルーに引き続きボリビヤでも胸糞悪い、悪徳警官と付き合わなければ成らないと思うと少し気がめいる。
 そして、舗装路をLa Paz 目指し走る。Boliviaは時差が1時間有り、1時間進める。お昼頃La Paz の町に入る。La Paz の町は良く写真で見る通り、すり鉢型の町で有った。町に入る高速道路の1車線が工事中の為、景色の良い処で車を停め写真を撮る。今日は篠田さんの友人の家にご厄介に成る事にし、先ず銀に行きB700を引き出し町を散策する。郵便局が有ったので入って行くと、Year’s Bookが売られて居たので2年分をB400で購入する。夕食は中華レストランで食べる、チャハン・餃子は美味しかった。
切手代B400,
走行距離133Km 給油49.21L
                     Peru走行距離3,613Km

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